| ２、３月１３日（木） 「──もう、勇ってば、ちゃんと話、聞いてくれよ！」 翌日、暁人はそう言いながら、弦の調子を見ている親友のヴァイオリニスト、阿久津勇の顔をのぞき込んだ。 青嵐学園は、本来はもう春休みなのだが、勇を含む学生たちは、ずっと、四月のコンサートの為に、この、大学の一角にあるホールのリハーサル室での合同練習を続けているのだ。むろんそれには鷹生も参加するのだが、演目のピアノコンチェルトでソリストをつとめる彼は、レッスンの都合で別メニューだった。昼に教授の指導を受けた後で、こちらに加わることになっているのだ。 「聞いてるよ。……とりあえず、バイト代は昨日、出たんだろ？」 どうしても相談したいことがあったので、その、鷹生が来る前の休憩時間を見計らってここに来たのだが、当の勇は、話を聞いた後、何故かそのハンサムな顔を、ずいぶんげんなりとさせていた。 やっぱり謝恩会コンサートのすぐ後だし、練習、大変なのかなあ……と、すまなく思いながらも、本当にどうしたらいいかわからなかったので、うなずいて続ける。 「うん、思ったより多くて嬉しかったんだけど……でも、ホワイトディに鷹生に何をあげたらいいか、やっぱり全然思いつかないんだ。もう明日なのにさ。ねえ勇、また君に聞いちゃって悪いんだけれど……彼の喜ぶものって何だと思う？」 実はこの一ヶ月近くの間、暁人にとってはそのことが最大の悩みだった。 「鷹生ってほら、君も知ってるとおり、本当になんでも出来るから、いつも欲しいものは、自分でさっさと手に入れちゃうんだよね。それって、すごくかっこいいと思うんだけど……だから困っちゃって。でも、君ならもてるし、チョコとかもよくもらうし、もらって嬉しいものとかわかるんじゃないかと思ってさ……」 と、勇は、自分の楽器をケースに戻すと、今風に脱色した髪に手を突っ込んで、頭をかきながら、暁人の言葉をさえぎった。 「えっとさ……ちょっと待てよ。最初にお前の、バイトしたい、って相談聞いた時から思っていたんだけどよ、そもそも前提が間違ってねえ？」 暁人はきょとんとした。 「何が？」 「いや、ホワイトディってさ……ヴァレンタインに女の子から何か贈られた男が、お返しをする日だろ。そうじゃなきゃ、告白られたのに返事する日、だよな？」 「うん、そうだよ？」 素直にうなずいた暁人に、勇はさらに頭をかきむしり、顔を赤くして続けた。 「あー、だからさあ……こーゆー場合、不破の奴の方が、お前に何かしてやる、ってのがスジじゃねえの？ ほれその……ええっと、立場上、さ」 「ええ!? だって、僕だって男じゃないか！」 思わず力を込めてそう言ったとたん、勇は座っていた折り畳み椅子からすべり落ちそうになった。暁人は驚いて目を見はった。 「あれ……どうしたの勇、大丈夫？」 「あ、ああ。ま、そりゃそうだな。──で？」 なんとか勇は姿勢を立て直し、もう一度座り直した。それに首をかしげながら、言葉を続ける。 「うん。ホントは、ヴァレンタインの時も僕、彼に何かしてあげたかったんだ。でも……これは内緒にしてほしいんだけれど、鷹生はその前から、プレゼントをすごくたくさんもらっていたのに、あんまり嬉しくなさそうだったんだよね。ええと……君も知ってる、彼と施設で一緒だった由香里ちゃんが、僕の分も一緒にチョコをくれた時はとても嬉しそうだったけれど。──だから僕、今みたいにずっと迷ってて、結局十四日までなんにも用意出来なかったんだ。だけどその日は僕、朝からずっと彼と一緒にいられて、すごくすごく幸せだったから……」 ふと、その時のことを思い出して、暁人は笑みがこぼれてしまった。 あの日は本当に楽しかった。奨学生である鷹生は、普段からバイトで忙しいし、暁人もちょうど、謝恩会コンサートのレッスンが佳境に入り、会うにしても夜だけ、という場合が多かったのに、偶然、どちらも都合がうまくつき、一日中暁人の部屋で二人で過ごすことが出来たのだ。なんだか女の子みたいだと思ったけれど、やはり、ヴァレンタインの当日、ずっと一緒にいられるのは特別な気がして、とても嬉しかった。 その日、鷹生は、持参した豆腐と、鶏のひき肉で和風ハンバーグを作って暁人にご馳走してくれ、暁人の方は、鷹生が見たがっていたサスペンス映画の、特別編集版のＤＶＤをレンタルしてきて、二人でソファーに寄り添って見た。他にも、ピアノを弾いたり、他愛のないことを話して笑いながら、由香里が贈ってくれたチョコを食べたりした。 ──ついうっとりと、その先まで思いめぐらせてしまった暁人は、勇の視線に、はっと我に返った。頬を染め、口ごもりながら続ける。 「え、ええと、だから……せめてホワイトディには、何かお礼がしたいな、って思って……」 「だからっつって、わざわざあいつに内緒のバイトまでして、金稼がなくったっていいだろうが。あいつ、絶対にお前が隠しごとをしてるって、わかってるぞ。なんか、いらいらしてるし。第一、お前んち金持ちだし、仕送りだってたくさんもらってるんだろ？ お前、そんなに身体丈夫じゃないんだから、無理すること……」 「だってそれは、父さん達のお金だよ、僕のじゃないよ！」 暁人は思わず叫んでいた。 「鷹生って、その……本当にものすごく努力して青嵐に入ったわけだよね？ 奨学金と、自分のバイトだけで生活してるなんて、それだけでも偉いって思うのに……その上で、僕に色々してくれるでしょう？ だったら僕も……前よりずっと体調もいいし、自分のお金で、なにかプレゼントしたかったんだ。こんなの、ただの自己満足かもしれないけどさ……」 「……」 すると、勇は今度は黙ってじっとこちらを見つめた。そしてふと、急に面白くないような顔をして目をそらしたので、暁人ははっとした。 ──実は以前、勇は暁人に、好きだ、と告白したことがある。けれどその頃、すでに鷹生に魅せられ、激しい恋に落ちていた暁人は、その想いに決して答えられなかった。今は勇もそれを受け入れ、また元通り、友人としてつきあってくれているのだ。 そんな彼の気の良さに、つい、甘えてしまったのかもしれない。あわてて言葉を探して謝る。 「あ、あの、ごめん、勇。いろいろあったのに、君にこんなこと聞くなんて、すごく悪いとは思っているんだけれど……。でも、君しか僕たちの関係知ってる人、いないだろ？ だから君に相談するしかなくてさ…。お願いだから、一緒に考えてほしいんだ」 「──いや、それ、みんなにバレバレだと思うぜ……」 「えっ？」 勇のぼそぼそした呟きは、一生懸命に頼む暁人にはよく聞こえなかった。むろん、すぐ傍にいる同じ学年の友人達が、聞かないふりをしてくれていることなどは、さらに全く、気がついていない。 「いや、だーかーらあ！」 聞き直そうと目を丸くした暁人に、勇は髪をかき上げ、妙にやけになったような口調で続けた。 「難しく考えないで、お前しか出来ない、あいつが喜ぶことをしてあげたらいいだろうが？ あいつはこのコンサートだけじゃなく、これから先、コンクールとかにもたくさん出るから、予定が詰まっているんだろ？ なら、お前がなるべく一緒に……」 「でも、僕が出来ることなんて、そんなに……あ、そうだ！」 言いかけて、ふいに暁人はあることに思い当たり、はっとした。そうだ、僕が出来ることで、鷹生が欲しがりそうなものが一つあった……。 嬉しくて、暁人はつい、子供の時と同じように、無邪気に勇に腕を回してすがりついた。勇は驚いたように目を見はった。 「ありがとう、勇！ やっぱり君ってすっごく頼りになるよ！ 僕、これからちょっと出かけてくる！」 「……あ、いや」 なんだか呆然として自分を見ている勇に手をふり、暁人はいそいそとリハーサル室を飛びだした。──と、ふとふり返ると、反対側の入り口から、ジーンズ姿の鷹生が入ってくるのが見えて、どきりと胸が高鳴った。 「……！」 声をかけたい衝動に駆られたが、次の瞬間、彼が恐ろしく不機嫌な顔をしているのに気づき、思わずたじろいでしまった。彼はまっすぐピアノの方に行き、蓋を開けてその前に座ったのだが、そうしながら、何故かまるで凍りつくような冷たい瞳で、無表情に勇を睨んでいるのだ。 あれ、やっぱり僕、鷹生の邪魔になっちゃったのかな……と、暁人は心配になった。でも、悪いのは僕なんだから、相手をしてくれただけの勇を、怒らないでほしいんだけど……。 当の勇は、というと、やれやれ、といった様子で顔をしかめていたが、思ったほどたじろいではいなくて、暁人は少しほっとした。 ──実は今回、鷹生達が演奏するのは、プロコフィエフのピアノコンチェルト第三番、という、去年の夏、彼が青嵐祭で弾いたラフマニノフを上回る難曲である。青嵐学園では、他人のレッスンを見るのも勉強のうち、という方針なので、生徒達は基本的に自由にリハーサル室に出入りしていいのだが、暁人は、自分がいると、鷹生が集中できないかもしれない、と思い、あまり見に行かないようにしていたのだ。 それにもう一つ、鷹生には複雑な事情があった。もともと、ピアニストとして優れた才能を持つ彼は、本来なら、もっと幼い頃から様々なコンクールに出場し、その名前を知られ、他の才能のある子供たちに混じって腕を磨いていなければいけないはずだった。しかし、施設で育った彼には、それらの経験が、まだ、ほとんどないのだ。 それで、暁人の祖母でもある青嵐学園の学長の薦めもあり、四月のコンサートの後、鷹生はいくつかのコンクールに立て続けに出ることが決まり、今はそのレッスンにも追われているのだ。 ──それって、鷹生にとっては実力を認めてもらえる大事な機会だし、やっぱり、僕が迷惑かけちゃいけないよね……。その方が彼の為なんだから── 少し寂しく感じながらも、暁人はそう自分に言い聞かせた。それに、この贈り物を明日のホワイトディに間に合わせるには、少し急がなければいけないようだった。 けれど、このまま立ち去るのはあまりに惜しくて、暁人はもう一度だけ、鷹生を振り向いて見つめた。と、彼はもう勇を見るのをやめて、ピアノに向き直っていた。鍵盤に手を置き、軽く指慣らしを始めると、たちまち、大粒のダイヤモンドのように美しく硬質な音色がそこからあふれ出した。 「……」 その音と、彼の姿の凛々しさに、暁人はまたちょっとうっとりしてしまったが、あわてて気を取り直し、大急ぎでリハーサル室を後にした。幸い外は、まだ明るかった。日がだんだんと長くなる季節なのだ。 |